本記事では以下の3つをメインに解説!
・高校の時、高橋竹山の津軽三味線を聴き衝撃を受ける。
・大学の部活は、邦楽部に入部し、練習の合間に独学で津軽三味線を練習。
・竹山以外の津軽三味線の演奏家も聴き、竹山の弟子や二代目の演奏も聴くようになる。
津軽三味線に衝撃を受ける
高校の時にテレビのドキュメンタリー番組で、初めて聴き衝撃を受けた楽器があります。
それは、高橋竹山の演奏する津軽三味線です。
津軽三味線は門付け生活をしていた新潟の瞽女(ごぜ)の三味線が北上し津軽地方で盲目のボサマに引き継がれ、そして、他の三味線音楽と一線を画す、激しく情熱的な音楽と発展していきました。
いまでこそ、津軽三味線は多くの人から支持されていますが、昔、彼ら彼女らは門付けをしてその日ぐらしの苦しい生活をしていました。
津軽三味線の音階は、米国で生まれたブルースで使われる音階と似ています。
しかし両者は一切接点がありません。基本はどちらも5音階(ペンタトニック・スケール)です。
ブルースは奴隷として迫害されていた黒人の孤独感や悲しみを表現する独唱歌として発展し今のJAZZのルーツのひとつにあげられます。
果たして、苦悩や悲しみから湧き出てくる「音」は人種関係なく潜在意識に閉じ込められた人間の本能的な魂の叫びなのでしょうか!?
時が経ちセッションなどで演奏するブルースはより複雑になり、5音階から完全に解き放たれています。
そして津軽三味線も、モダンな演奏技法、音階の使い方をするようになってきている。
上妻宏光氏や高崎裕士氏など、若手の活躍で若い年代にも受け入れられるようになり、全世界でも若手の演奏会が開かれるようになっています。
私は大学入学後迷わず三味線が弾けるということで邦楽部に入部しました。
といっても、琴、尺八のパートの方が人数が多く三味線パートの先輩は二人しかいませんでした。
三味線にはいろいろなジャンルがあります。
津軽三味線もその一つですが、代表的なものに地唄、長唄、浄瑠璃、清元、民謡などの分野があります。
クラブでは、琴と尺八と三味線で演奏するため、地唄が多かったです。
「六段」という地唄の代表的な曲があり、それを弾きこなせば他のたいていの地唄は弾けると言われていました。
このように普段の練習は琴、尺八、三味線での合奏が多かったのですが、私は練習の合間に津軽三味線をレコードを聴きながら独自に練習をしていました。
津軽三味線にはまる
クラブの練習が終わった後、部室にレコードを持ち込んで、やはり、耳コピーしました。
津軽三味線は音使いが単純なのですぐに弾き方がわかるのですが、レコードの演奏のニュアンスとどうしてもかけはなれたような感じがするのは否めませんでした。
社会人になってから、はじめて、ちゃんとした師匠につき、正しい弾き方があるのだと気づかされるのですが、そのときはそれらしく弾いて満足していました。
それと、津軽三味線は太棹といって、普通の地唄用の三味線の竿の幅の1.2~1.3倍くらいあります。
それに、普通の地唄等の三味線の皮は猫の皮ですが、津軽のそれは犬の皮を貼っています。
なので、津軽三味線本来の大きく響き渡る音をだすのは地唄用三味線では不可能でした。
邦楽部の定期演奏会は毎年1回開催されるのですが、地唄、長唄などのほかに、「現代邦楽」の分野の楽曲も積極的に取り入れていました。
この分野では現代音楽の作曲家として有名な武満徹さんも多くの楽曲を残されています。
日本では「日本音楽集団」という現代邦楽を中心に活動しているグループが存在します。
従来の古めかしさをそこなうことなく、しかも曲調がモダンで古典の域を超えています。
琴は13弦ですが、それよりも弦の数が多い「十七弦」という琴や、琵琶、大太鼓、小太鼓、鼓などの打楽器、横笛となる篠笛(しのぶえ)、竜笛(りゅうてき)などの管楽器など多くのパートがあり、クラシックでいうところのオーケストラ的な編成です。
津軽三味線以外では、このような現代邦楽にも一時傾倒してしていた時期があります。
津軽三味線を正式に習う
卒業後、東京に就職しました。
津軽三味線への執着も強くなっていき、80万円もする津軽三味線用の太棹を購入しました。
そして、地元の津軽三味線を教えている社中に所属し、師匠に教えを乞うようになったのです。
津軽三味線の代表的な曲に「津軽じょんから節」という曲がありますが、基本的に楽譜はありません。
「津軽じょんから節」には奏者によっていろいろなバージョンがあり、私の場合、全部で5段(5章)ありましたが、それを師匠が弾くのを目で見て、耳で聴き取り演奏するのです。
津軽三味線は音の数が少ないので、ある程度パターンがきまっていて、基本的な演奏ができるようになると、JAZZと同じで即興でも演奏できるようになります。
音使いがJAZZのブルースに似ていて、基本5音(ド、レ、ミ、ソ、ラ)を主に使います。
演歌でいうところのヨナ抜き(ファ、シを使わない)です。
自由自在とまではいきませんでしたが、三味線でちょっとした即興演奏をすることもたまにありました。
津軽は、ばちの使い方がとても重要です。静かに弾くか、たたきつけるように弾くか、もありますが、基本的にばちを三味線の胴の上、下、交互に移動させながら弾くというのが基本的な弾き方です。
この基本的弾き方を最初からしないと後から修正するのが難しくなってきます。
私も上下の動きを意識しない弾き方をしてこなかったので苦労しました。
休日は、各地で開かれる民謡ステージで三味線を社中の方たちと演奏していました。
津軽三味線だけでなく、民謡を演奏したり、唄ったりもしていましたが、津軽三味線以外は正直あまり関心はありませんでした。
高橋竹山の経歴
YouTube動画:津軽じょんから節
1910年6月18日 青森県の東津軽郡中平内村小湊に生まれました。
本名は高橋定蔵。幼くして麻疹(はしか)にかかり、それが原因で失明します。
その後数年して、ボサマという盲目の門付芸人であった戸田重次郎から三味線を習い、三味線1竿だけたずさえ、主に東北北部や北海道を門付けして回りました。
門付けとは、各家々をまわり、その門や玄関の前で、三味線を弾きながら唄い、そこでいくばくかの小銭をいただき生活することをいいます。
今ではほとんどみられませんが、僧侶の托鉢と同じようなものですね。銭(お金)ではなく、お米や野菜をもらうこともありました。
竹山がまだ17,8歳のころです。今でいえば高校生くらいの時に過酷な生活を送っていたのですね。特に冬、厳寒の中での門付は想像を絶するものがあったと思います。
その頃は、やはり三味線だけでは生活することが出来ず、県立八戸盲唖学校に入学し鍼灸師とマッサージ師の免許を取ります。
しばらくは三味線から離れますが、戦後まもなくして、当時津軽民謡の神様とも呼ばれていた成田雲竹の唄の伴走者として三味線を再開します。
竹山という芸名はその時に雲竹より送られたものです。
1954年ころから地元青森のラジオ局の民謡の番組に雲竹とともに竹山も出演しました。
雲竹は竹山に、三味線の伴奏だけではなく、数ある津軽民謡に対して三味線で伴奏できるようにしてほしいと頼みます。
雲竹が作詞作曲した『りんご節』など、2人で多くの津軽民謡を発掘し、レコードを制作します。
1963年には史上初の津軽三味線独奏LPレコード『津軽三味線 高橋竹山』をリリースします。
これ以降、高橋竹山の名は津軽三味線奏者として全国的に有名になりました。
1973年には東京の『渋谷ジァン・ジァン』という小劇場に初出演し大好評を博します。
定期的に開催するライブでは、多くの若者の心を惹きつけ一気に津軽三味線がメジャーなものとなります。
そして、竹山は自伝『津軽三味線ひとり旅』を発表し、1977年には新藤兼人脚本・監督による映画『竹山ひとり旅』が製作されます。
この映画はモスクワ国際映画祭に出品され津軽三味線がよりメジャーになっていきます。
この時、主役の竹山を演じたのが、今は亡き林隆三でした。
竹山は、1986年にアメリカの7都市で10回の公演を行います。
この時の様子は、ニューヨーク・タイムズにも掲載され、大絶賛を浴びます。
この公演がきっかけとなり、津軽三味線の名が世界的にも知られるようになりました。
その後も、日本各地でコンサート形式で多くの公演を継続して行いました。
1998年2月5日に喉頭癌により死去。享年87歳でした。
病でたおれるまで現役で活躍し続けました。
生涯、弟子をとらないという主義を持ち続けましたが、唯一内弟子として師事し最後まで演奏活動を共にした竹与に「竹山」の名前を譲りました。
彼女だけ弟子にした理由は、竹与は弟子をとって教えるということをせずに、演奏活動だけで生活していたのを心配していたからだったといわれます。
他にも弟子はいます。高橋栄山や孫弟子として山本竹勇、高橋竹仙などが有名です。
津軽三味線は『叩き三味線』と『弾き三味線』に今では分類されている様です。
竹山の演奏スタイルについては、よく「弾き三味線だ」と言われることがあります。
これについては、同じ津軽三味線奏者として活動していた木田林松栄が得意とする、ばちで三味線の胴体を叩きつける奏法と比較されたことから、言われるようになったようです。
確かに、竹山の演奏はどちらかというとつま弾く、というか静かな雰囲気があるのに対し、木田林松栄は叩きつけるような大きくダイナミックな奏法を得意としています。
現在の津軽三味線の奏法は、撥で叩くように演奏するスタイルの奏者が多いようです。
なので、竹山の演奏を物足りないと思う津軽三味線ファンもいるかと思います。
私もどちらかというと叩くスタイルが好きですが、竹山の演奏を聴くと魂に静かに響いてくるものを感じてほっとした気分になります。
高橋竹山の弟子たち
・二代目高橋竹山(高橋竹与)
まだ幼い頃に三味線の音色にひかれ、11歳から稽古を始めます。
やはり高校のころ聴いた高橋竹山のレコードがきっかけとなって、卒業後、竹山の内弟子となります。
本来、初代竹山は弟子をとらない主義だったらしいのですが、 竹与は人に教えることを嫌い、自分の演奏技術向上だけを考えていたといい、それを知った竹山が、それでは食べていけないだろうということで、仕方なく内弟子にしたとか、しないとか・・・
三味線だけでなく、津軽民謡の名人といわれた成田雲竹の津軽民謡も学びながら、高橋竹与(ちくよ)の名で竹山と同じ舞台で演奏活動をつづけました。
1979年には、竹山から独立し、海外公演を精力的にこなしていきます。
1997年に、初代高橋竹山から、「竹山」の名を譲り受け、二代目高橋竹山となります。
その演奏活動は、多岐にわたり、アコーデオン奏者cobaやJAZZピアニスト山下洋輔と共演するまでになりました。
基本的なところはそのまま大事にしながら民謡だけにこだわらず、色々なジャンルの演奏家たちと共演して活動の場を広げています。
伝統的なところを土台にし、現代的な感覚や女性ならではの繊細さをを表現し、全国的に演奏活動を続けています。
・高橋栄山
初代 高橋竹山の直弟子で、竹山流津軽三味線の第一人者です。
初代 高橋竹山先生がまだ全国区でなかったころ、まだ17歳だった栄山は、初代竹山の演奏に感動し、そして弟子入りを願うのですが、当時の竹山は「目が見えるなら三味線なんか弾くな!」と無下にされたそうです。
それでもあきらめきれない栄山は、初代竹山の送迎や雑用を買って出て、いつも行動をともにし、3年後やっと弟子として受け入れてもらえました。
ただ、簡単には技術を受け継ぐことは難しく、譜面がないことや、初代竹山が教えることをあまりしなかったこともあるようです。
演奏技法を盗まれるのが怖かったんではないでしょうか。
今では、紙だけではなくネット上にも津軽三味線の譜面があるようです。
栄山はあるステージで三味線を弾く機会があると、その合間でも、とにかくひたすら練習を続けたそうです。
高橋竹山の存在が全国的に知られるようになり、竹山流津軽三味線を関西にもひろめてくれないか、と言う初代竹山の意向で、弟子入りから10年たった1975年に、青森から神戸に移り、竹山流津軽三味線の道場を開き、今も多くの弟子たちに津軽三味線を伝承しています。
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